水の日・水の週間

「水の日」および「水の週間」は水の大切さや水資源開発の重要性に対する国民の関心を高め、理解を深めるため昭和52年の閣議了解により政府が定めたものです。年間を通じて水の使用量が多く水に対して関心が高まる時期である8月の初日(8月1日)を「水の日」として、この日を初日とする1週間が「水の週間」です。(国土交通省HPより)
水は私たちが生きていくうえで必要なものです。今では水道の蛇口をひねると安全な水を飲むことができ、それを当たり前のこととして享受していますが、昔はそうはいきませんでした。
そこで、今回は江戸時代の長崎において、初めての上水道である「倉田水樋」を創設した「倉田次郎右衛門(くらたじろうえもん)」を紹介します。
私が倉田次郎右衛門さんを知ったのは1年前です。
当時小学校4年生の娘との帰り道でのことでした。娘から「倉田次郎右衛門さんって知ってる?」と聞かれたのがきっかけでした。私は「ちょっと聞いたことがないお名前だなぁ。お友達や先生じゃないよね?学校で教えてもらったの?どんな人?」と聞くと、娘は目を輝かせて「すごい人だよ!長崎で最初の水道をつくった人!」と教えてくれました。家に帰ってからよくよく聞くと本当にすごい方でした。
長崎市は1571年の長崎港開港から海外との貿易を通して発展をはじめました。大都市へと発展をとげたものの、市街地は海岸の埋め立てによって拡大されたため、湧き水はほとんど望むことができず、人々は水不足に悩まされていました。
寛文3年(1663年)3月8日、「寛文長崎大火」(66か町のうち57か町、民家2900戸が焼失した大災害)の際に水不足を痛感した倉田次郎右衛門は水道をつくることを決意。翌年より銭屋川(現在の長崎市の中心部を流れる中島川の別名)から取水する水道工事を私財のほとんどを投じて着手し長崎奉行所の支援を得て、延宝元年(1673年)に完成させました。
この水道が「倉田水樋」です。その後明治24年(1891年)に近代水道が創設されるまでの218年間長崎の住民の暮らしを支え、水を供給し続けました。
童話館の社屋から徒歩20分ほどのところに倉田水樋水源跡があります。今回の記事を書くにあたり、先日行ってみました。それからは、近くをとおる際に、私のご先祖さまも倉田水樋から供給された水を利用していたのかなと思いを馳せています。
さて、暑さも本番となりこれから水を利用することもますます増えてくるかと思います。
わが家では毎年この時期は、子どもたちがプールをして涼んでいます。庭の花や家庭菜園の野菜へもこまめに水まきをしています。
安全な水を使えることに感謝をして大切に使いたいと思います。
(担当:H)
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